吉野山と歴史 |
671 |
役行者が大峰山(湧出ヶ岳)で蔵王権現を感得し、その御姿を桜の木で刻んだと伝えられる。 |
701 |
持統天皇、この年までに三二回も吉野に行幸。 |
900 |
宇多法皇、この年と延喜五(九〇五)年に金峯山に参詣。 |
960 |
内裏炎上。そのあと吉野山の桜が紫宸殿前に植えられる(左近の桜) このころまでに「金御嶽」として、金峯山の黄金埋蔵伝説が生まれる。 |
1007 |
藤原道長が御嶽詣(金峯山詣)をし、金峯山山上に経塚を築く。 |
1049 |
藤原頼道が御嶽詣 |
1092 |
白川法皇が御嶽詣 |
1140 |
平忠盛が金峯山に鐘(三郎鐘=重文)を寄進。このころ西行が来て寓居する。 |
1185 |
源義経らが吉野山に潜伏。静御前が捕らえられ、鎌倉に送られる。 |
1226 |
如意輪寺の蔵王権現像(重文)が造られる。 |
1251 |
水分神社玉依姫神像(国宝)が造られる。 |
1332 |
大塔常護良親王が吉野に城郭を構築し、倒幕の兵を挙げる。 |
1333 |
鎌倉幕府軍が攻め寄せ、護良親王ら高野山に難を避ける。 村上義光・義隆父子が討ち死に。吉野山ほほ全焼。 |
1336 |
後醍醐天皇が吉野山に潜幸。南北朝の対立が始まる。 吉水院宗信らが後醍醐天皇を迎え、吉水院(現在の吉水神社)を行在所とし、ついで実城寺(金輪王寺)を皇居と定める。 |
1338 |
仁王門(国宝)の金剛力士像(阿形・県文)が造られる。 |
1339 |
後醍醐天皇崩御。塔尾山(如意輪寺本堂の裏手)に葬られる。 仁王門の金剛力士像(吽形、県文)が造られる。 |
1347 |
楠木正行が後村上天皇に最後の別れを告げるために参内、後醍醐天皇陵に詣でたのち四条畷へ出陣 |
1348 |
足利方の高師直軍が攻め寄せ、後村上天皇ら賀名生(西吉野村)に難を避ける。吉野山ほぼ全焼。 |
1471 |
蔵王堂正面の銅灯龍(重文)が寄進される。 |
1553 |
三条西公条が来て「吉野詣記」を著す。 |
1578 |
摂津平野の豪商末吉勘兵衛が桜の苗一万本を寄進する。 このころから、参詣の人々による桜の献木植樹が盛んとなる。 |
1592 |
このころ現在の蔵王堂(国宝)が再建される。 |
1594 |
豊臣秀吉が、豊臣秀次・徳川家康・前田利家・伊藤政宗らを引き連れ吉野で大花見をする。因みに家康隊は櫻本坊に宿泊したrと伝えられています。 |
1595 |
豊臣秀吉、金峯山寺に寺領寄進の朱印状をあたえる。 |
1604 |
豊臣秀頼、水分神社社殿(重文)・安禅寺(廃寺)・大橋などを修復。このころから庶民の山上参り(大峯山参り)が、ますます盛んとなる。 |
1874 |
神仏分離政策により、蔵王堂などが強制的に神社に改められる。 |
1886 |
蔵土堂が仏堂に復帰する。 |
1924 |
吉野山が史跡及び名勝に指定される。 |
1928 |
現在の吉野駅まで鉄道が延長される。 |
1936 |
吉野熊野国立公園に指定される。 |
2004 |
・ユネスコ世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」登録。 ・櫻本坊吉野聖天大祭 世界遺産記念大護摩供(蔵王堂) 行者問答(道場主:澤田 旅の行者:鈴木) |